キリスト教と戦争
【1,851字・3分】
本書が、綺麗事を抜きにして、率直に「平和」について議論をしていくための、ささやかなきっかけになれば幸いである。
(まえがき)
では著者にとって「綺麗事」とは何か。キリスト教が「綺麗事」のひとつであるのは間違いない。
単純に考えれば、もし最初からすべてのキリスト教徒が「平和主義的」に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。
(第四章 初期キリスト教は平和主義だったのか)
あらゆる宗教が戦いの旗印になってしまう可能性を秘めている、という事実を著者は認めるが、それは「戦いという現実を宗教という綺麗事で覆う」ことなのかというと違うだろうと著者はいう。
辛辣な宗教批判者としても知られる生物学者のリチャード・ドーキンスは、『利己的な遺伝子』のなかで、「軍事技術年間には、大弓や軍馬や戦車や水爆と同じ資格で、宗教的な信仰についても一章がさかれて当然である」と述べている。
確かに、宗教が戦いの際の旗印として用いられることはよくある。伝統的宗教ではない世俗のイデオロギーや民族・国家意識が擬似宗教化することもある。だが、戦争というのは、人々が殺し合いをする壮絶な営みであり、その社会の存亡もかかった実に深刻なイベントである以上、キリスト教会であろうが、靖国神社であろうが、「宗教」が何らかの関わりを見せるのは、単に自然なことなのである。宗教が戦争に関わっているということと、それが戦争の「原因」かどうかということとは、きちんと区別されねばならない。
(終章 愛と宗教戦争)
話は、そもそも戦争とは何かという考察に及ぶ。
ユルゲンスマイヤーによれば、「戦争」は「宗教的伝統に則った儀式」と同じく「人生のきわめて奥深い側面を例証し、説明する参加型のドラマ」でもあるのだ。
(終章 愛と宗教戦争)
「人生のきわめて奥深い側面を例証し、説明する参加型のドラマ」としての「戦争」の側面は、反戦平和主義の中にも見られると著者はいう。
人や社会が武力の行使を決断する際には、しばしば次のような三つの先入観が強く働いていることが多い……①諸悪の根源は外来的なものである②悪はつねに意図的である③今は特別な時代である……
皮肉にも、これら三つの心的傾向は、反戦平和主義者にもあてはまる。すなわち、①戦争は一部の邪悪で好戦的な連中によって引き起こされるものだ、②彼らは自覚的・意図的に社会を戦争に引きずり込もうとしている、③特に今は、そうした勢力が大きくなっている危険な時代なのだ、というものである。……危機感と使命感は、善良な人々の心を躍らせ、平凡な日常に彩りを与えてくれる。平和運動もまた、日常の倦怠からの「癒し」として機能しうるのである。
(終章 愛と宗教戦争)
結局、著者が「綺麗事」と考えるものは、キリスト教それ自体というより、「キリスト教は愛と平和の宗教」とか「平和は善、戦争は悪」といった皮相的なレッテル貼りのすべてなのだろう。
愛があろうがなかろうが、人はみな、どうせ「死」という同じゴールにたどり着く。それにもかかわらず、私たちはそのよく分からない「愛」とやらに拘泥して、戦いに命をかけ、あるいは反戦運動に身をささげる。戦争と平和の問題を考えるというのは、「愛」の困難に象徴されるような、人間の根本的な矛盾と限界を認め、受け入れることから始めなければいけないように思われる。
(終章 愛と宗教戦争)
ある意味皮相的なものの否定に終始する観がなくもない、いわば「シニカル」とも呼べるこの本が意義深く見えるかどうかは、著者によって「綺麗事」呼ばわりされたものの向こうにある「人間の根本的な矛盾と限界」が、読み手の心に実体として像を結ぶかどうかによるのだと思う。
私たちにとって、大きな愛と大きな平和を叫ぶのは快感だが、実際には、小さな愛と小さな平和を実践するのも大変だ、という素朴な現実である。
(あとがき)
クリスチャンである著者のこの感慨にクリスチャンであるぼくは同意するが、自分のやっていることを「大きな愛と大きな平和を叫ぶ」ことだと決めつけられた気になる人はきっと愉快ではないだろう。